NotenkiExpress 2013

お天気,競馬,2時間サスペンスドラマなどに関するメモ書きです。

くろーばー号船長の海難審判

1903年10月29日,暴風雪の津軽海峡で,青森から函館に向かっていた日本郵船の貨客船「東海丸」(1121トン)の側舷にロシアの貨物船「プログレス号」が衝突,東海丸は沈没し,乗客・乗組員104人のうち47人が死亡しました。

暴風雪の津軽海峡で船が沈没したにもかかわらず半数を超える57人が助かったというのは奇跡です。ひとえに東海丸の久田佐助船長の英雄的な行動によるものでした。「小學國語讀本巻十」(1938年)より

 すると、まことに突然、右手のすぐそこに、此方をさして突進して來る船があつた。それは、室蘭で石炭を積んで、ウラヂボストツクへ廻航するロシアの汽船であつた。
 東海丸の船長久田佐助は、眼前に迫る此の危急をさけるのに全力を盡くしたが、しかしもうおそかつた。忽ち一大音響と共に、ロシア汽船の船首は、東海丸の船腹を破つてしまつた。海水は、ようしやなく浸入する。東海丸の船體は、極度に傾いた。
 すは一大亊。久田船長は、早速乘組員に命じて部署につかせた。五隻のボートは下された。彼は、わめき叫ぶ船客をなだめつゝ、片端からボートに分乘せしめた。此の間にも、東海丸は刻々と沈んで行つた。
  船客も船員も、すべてボートに乘つた。船長は幾度が確めるやうに、
「みんな乘つたか。」
「乘りました。」
「一人も殘つてゐないな。」
「殘つてをりません。」
殘つたのは、たヾ船長一人であつた。
「船長、早くボートへ乘つて下さい。」
だが、返亊はなかつた。一體何をしてゐるのだらう。
船員の一人は、たまらなくなつて、はせつけた。
「船長、早くボートへ。」
 しかし、船長は、船橋の欄干に身を寄せて動かうとしなかつた。見れば彼の體は、旗のひもで、しつかと欄干に結び附けられてゐる。沈み行船と運命を共にしようとする覺悟なのだ。
「船長、私も一しよにお供いたします。」
それは、全く船員の感激の叫びであつた。
 船長は嚴かに答へた。
「船と運命を共にするのは船長の義務だ。お前は速く逃げろ。一人でも多く助つてくれるのが、私に對するお前たちの務ではないか。」
悲痛な、しかも威嚴のある聲に、船員は思はずはつとした。彼は、すごすごとして最後のボートに身をゆだねた。
 東海丸からは、引切なしに汽笛が高鳴つて、暗い海の上を壓した。聞く人々は全く斷腸の思であつた。やがて、其の音は聞こえなくなつた。東海丸は沈沒したのである。最後の瞬間まで、非常汽笛を鳴らし續けた久田船長もろ共に。

船と運命をともにした船長としては,1970年2月9日に沈没したかりふおるにあ丸住村博船長も有名です。

 沈没の約20分前、来援したニュージーランド国籍の冷凍貨物船オーテアロア号の救命艇がかりふおるにあ丸に接舷し、乗組員22人を乗せて同号に収容したが、船長は退船を拒否し、船橋に残留して行方不明となり、救命艇が落下した際などに海中に転落した6人のうち2人がえくあどる丸に救助され、その他4人が行方不明となり、負傷者8人を含む24人が救助された。
 本件は、ぼりばあ丸に続く大型鉱石船の遭難事件で、大型船は沈まないとの認識を再び改めさせることとなり、しかも船舶の最高責任者である船長が、船と運命を共にしたことから国民は大変なショックを受けた。
日本の重大海難(機船かりふおるにあ丸遭難事件)_海難審判庁ホームページより)

当時は船員法で「船長の最後退船義務」が定められていました(条文不明)。ところが,かりふおるにあ丸の事件などによってこの規定が船長の殉職をあおっているのではないかという批判が高まったこと,また船の最高責任者である船長が殉職してしまうと原因究明が難しくなることなどにより,現在ではこの規定は廃止されています。

ところで,映画「LIMIT OF LOVE 海猿」のくろーばー号の船長は,船内に影も形もないんですが,真っ先にトンズラしたのでしょうか?

メイキングビデオやノベライズ版ではチラッと出てくるのですが,危機回避や乗客の避難誘導の指揮を執った形跡はなく,おそらく海難審判で厳しい裁決が下ったことでしょう。

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