七五三台風
今日は七五三。とはいってもσ(^^;)には何の関係もない日ですが。
さて,1932年の七五三の未明,“帝都”が台風の爆撃に遭いました。七五三の日に襲ってきたので「七五三台風」とよばれます。
「気象要覧」によると発生直後のようすは次のとおりです。
此の颱風は七日正午ヤップ島南方百粁の海上に現れ(更に南方より進行し來たれる形跡あり)西北西に進行しつゝ漸次勢力を増し,十日午後フィリッピン,レガスピ付近に逹したる時はすでに七百四十粍内外となり,進路を北西より北に轉じ,十二日朝ルソン島北端を離れ進路を北東に向けた。此の頃より次第に勢力を増し,七三五粍位のものとなり十三日冲繩の南東海上を通過するに當たり同島は暴風雨と化した。
14日にはさらに発達しながら日本の南海上を北東に進み,夕方には静岡県が,夜には関東南部が暴風域にはいり,横浜36.3m/s,館山35.2m/s,銚子31.5m/sなどの最大風速が観測されました。勝浦では“風力台”が吹き飛びました。東京でも最大風速21.2m/sが観測されています。降水量も相当なもので,館山で230mm,東京で210mm,横浜で164mmの雨が降りました。まさに「到るところ倒壞浸水相次ぎ 風吼え狂ふ物淒き一夜」(東京日日新聞)でした。
おもな災害を新聞から拾ってみると,横浜の中村町の崖崩れで120人が生き埋め,東京市では蒲田と江東を中心に42000戸が浸水,同じく東京市で新築中の小学校7校が全半壊,静岡県吉原村では暴風雨の最中に火災が発生し250戸が全焼,茨城県太田町でも150戸が全焼……。17日付のなぜか北海タイムスには,静岡県の大宮町は火災と烈風のためににほとんど全滅のもよう,などという記事もあります。
台風はそのまま北東進を続け,15日00時20分には勝浦が,02時40分には銚子が眼にはいりました。勝浦と銚子ではこのとき観測された952.8hPa,952.0hPaがそれぞれの観測史上の最低気圧になっています。
このあと台風は日本列島から離れていきましたが,台風の進路に近い福島県沖が大しけとなり,40隻の漁船が遭難しました。
「理科年表」によると,全体の被害は死者146,不明111,負傷345,住家13672,浸水65081,船舶2230にのぼり,11月としては未曾有の大災害となりました。
なお,台風とは全然関係ありませんが,16日付の東京日日新聞に“トンデモ女教師”の摘発というものすご~く興味深い記事が載っています。いずれヒマを見て紹介します。